真宗大谷派(東本願寺)
速水山 念慶寺
門徒宅で葬儀の際にお掛けする「臨時仏」は、道場時代に安置されていた絵像本尊と云われています
小谷城と山本城を結ぶデッドライン
小谷城を陥落させた秀吉の進撃路
東本願寺を分立させた教如上人
教如の最終的な大坂退去後、湖北十ヵ寺の結束を確認する連判状。ただし、後に准如派(西本願寺)となる福田寺と湯次誓願寺は花押を押していない
門前より長浜別院を望む
五村別院、教如上人像
念慶寺旧本堂
湖北と念慶寺
念慶寺の始まりは戦国時代です。
湖北の速水という地域は、1570年(元亀元)から始まる元亀争乱時に浅井長政とともに織田信長軍と闘い、争乱後も信長に抵抗する本願寺を支持しています。
この争乱時、念慶寺は寺院としての構えは持っておらず、速水庄の道場でありました。その道場元を務めていたのが、地頭代官であった速水庄治郎です。恐らく民家の一郭に本尊を安置する内道場式で、地域の人々が日々寄り合ってお勤めをし、念仏の教えを語り合う場であったと思われます。そして、重要な事項をみんなで協議して決める「寄り合い(キメゴト・衆議)」の場でありました。対信長についてもここで協議されたことでしょう。
湖北における信長との戦闘は、元亀元年4月に始まりましたが、同年9月には本願寺が大坂において信長軍に攻撃を開始し、全国の門徒集団に檄文を飛ばしました。足掛け11年に及ぶ「石山合戦」の始まりです。
湖北地域(江州北郡)は、本願寺と本末関係を結ぶ「湖北十ヵ寺」と呼ばれる有力寺院を中心にして寺院や地域の道場と関係が結ばれていました(念慶寺は長沢御坊・福田寺)。湖北の坊主衆・門徒衆は、本願寺から届けられた檄文に応じ、浅井長政とともに信長包囲網の輪に加わります。これが浅井滅亡まで続く「湖北一向一揆」です。
苛烈を極めた元亀争乱でありましたが、浅井氏の居城である小谷城と山本城を結ぶデッドライン(速水はその線上に位置)が破られたことによって浅井軍は窮地に陥り、最終的に通常進撃路とは異なる急斜面から小谷城本丸に攻め込んできた豊臣秀吉によって壊滅します。
ここで注目すべきは、浅井氏が滅亡しても湖北地域の坊主衆・門徒衆の組織は解体していないということです。速水の地域においても、「ハヤミノ町(寄講)」の名で信長と徹底抗戦する本願寺の教如に金員を送っています(東浅井郡誌「柴辻文書」)。また、長浜では石山合戦の加勢を協議する場として「総会所」が設けられますが、これが後の長浜別院・大通寺となります。
当時の本願寺は、石山合戦において徹底抗戦するか退去するかで事実上、内部分裂を起こしていました。徹底抗戦を掲げた教如は、父顕如の大坂退去後も本願寺に留まり続けます(大坂拘様)。この分裂がやがて東西分派、東本願寺の分立へとつながります。
大坂退去を巡って父顕如から破門された教如は、湖北地方をはじめ全国各地を転々としますが、教如が巡った道筋には寺院がほとんどなく、道場が中心となって信仰相続がなされていた真宗地域です。僧俗未分の道場主が地域の人々とともに信仰共同体を形成している姿を垣間見た教如は、各地の道場によって構成する新しい教団形成の理念を確立していきます。
本能寺の変によって信長が没すると、顕如・教如親子が和解し、教如が本願寺宗主を継承しましたが、石田三成側の謀略もあって、豊臣秀吉により宗主の座を弟准如へと譲ることとなります。
隠居の身となった教如を迎え入れ、新しい教団の本山にしようと、1602年(慶長7)虎姫に五村御坊(現在の五村別院)が寄進によって建立されます。
この1602年は、関ヶ原合戦に勝利した徳川家康が教如に烏丸七条の地を寄進して東本願寺が成立した年でもあります。当初、家康は本来の本願寺宗主に就くことを勧めましたが、石山合戦以来、内部分裂している全国の坊主衆・門徒衆の状況を鑑み、新しい教団を形成することを選択しました。
念慶寺の開基となる速水藤治朗(庄治郎の子)は、東本願寺成立の翌年1603年(慶長8)、教如から得度を受け、「釈正善」の法名を授けられます。
本願寺支持で一枚岩であった湖北地域でしたが、東西分派に際しては教如支持と准如支持(西本願寺)で二分します。当寺の前身となる速水庄の道場は、いわば長沢御坊・福田寺の傘下にありましたが、福田寺が准如支持に回っていることを受け入れませんでした。
藤治郎が東本願寺を創立させた翌年に教如から得度を受けたことは、教如方を標榜し、福田寺傘下から自立した集団になったことを意味しています(湖北地域はほとんどが東本願寺)。
教如は上寺を持たない地域自立集団の崇敬の中心として御坊(別院)を位置づけ、真正面を向いた親鸞の絵像である「根本等身御開山御影(真向御影)」を授与していきます。湖北地域においては、五村御坊、長浜御坊がこれに当たります。
教如が構想したのは、僧俗一体の地域信仰共同体の東本願寺教団でありましたが、これを分断したのが信長・秀吉の政策であり、これを完成させたのが江戸幕府です。
まず、戦国期の地域社会は、道場主がそうであったように、村殿とか地侍と呼ばれる人々は、武士であり同時に農民でもありました。これを解体して、城下に地侍を集住させて兵士とさせ、常備軍団を形成したのが織田信長でした。
次に、これを継承する豊臣秀吉は、刀狩令として京都・方広寺の大仏建立への結縁、具体的には資材提供を名目にして百姓の武具所持禁止を全国展開させました。これによって、武士に専念するものは城下町に住まわせ、農民は地域に留まることになりました。そして、武力によって地域間の問題を解決していた当時の自治(自検断)を豊臣政権に預けていくことも意味していました。
一向一揆が発動した真宗地帯では、地侍的性格を持つ僧俗未分の道場主にも同様な作用をもたらしました。秀吉の政策が意図したのは、兵農分離、僧俗分離であり、地域と密着した共同体を根底から引き裂くことにあったと言えるでしょう。
最後に登場する徳川幕府は、士農工商に代表される身分の固定化を完成させました。道場の寺院化が進み、僧俗一体から専業の坊主分が分離して寺号を獲得して僧侶身分が固定化することとなります。
『江北三郡寺院鏡』(長浜順光寺蔵)によれば、念慶寺の成立は1647年(正保4)5月と記されています。この年の5月23日は開基の釈正善が亡くなった年月に当たります。史料の錯誤、あるいは東本願寺から御本尊の授与を受け、正式に本末関係を結んだと年になるのかもしれません。
沿革概要
1603年(慶応8)、速水藤治朗(釈正善)が教如上人から得度を受けたことをもって念慶寺が始まります。
第5代をもって、念慶寺を継承してきた速水の血筋は途絶えますが、柴辻家の子女を坊守に迎えて存続していきます。当寺の梵鐘は第4代正戒が住職であった1714年(正徳4)、柴辻孫兵衛から寄進されたものです。
その後、石田や東阿閉の真宗寺院から入寺などの支援を受けて存続していきます。
1967年(昭和42)には、本堂を焼失しましたが、1983年(昭和58)念慶寺門徒の尽力により本堂が再建され今日に至っています。
焼失後の本堂跡地には、速水小学校の子どもたちがよく遊びに集まってきた。
1983年の落慶法要
念慶寺歴代
開基 釈正善 (速水藤治朗)
第2代 釈正春 (速水作次郎)
第3代 釈正悦 (西嶋藤左衛門)
第4代 観照坊釈正戒
第5代 釈正恩
第6代 釈正観
第7代 転迷庵釈正導
第8代 開悟庵釈義導
第9代 常護庵釈義観
第10代 光耀庵釈賢励
第11代 法音院釈清亮 (速水清明)
第12代 誠心院釈賢亮 (速水賢亮)
第13代 慶喜院釈俊亮 (速水俊亮)
第14代 釈賢昭 (速水賢昭)
第15代 釋賢亮(速水馨)
湖北の風景
周囲を山と琵琶湖に囲まれた湖北の集落には、必ず真宗寺院が建立されています。人口比を加味すれば、その過密度は日本一になります。
東本願寺子どものつどい